・序章
はじめまして。女優・タレント・ブロガーのセトセイラです。
私は現在、フリーランスになって早1月半。これまでの私は、芸能事務所に拠点を置きながらアルバイトで食い繋いでいた。『夢追い人』と言えば聞こえはいいが『28歳、独身でおまけにやりたい事の為に貧乏生活してる』なんて話は世間の風当たりは強いかもしれない。『下積み時代』が評価されるのは結果が出せた人だけだと大体決まっている。
正直なところ、私はこのタイミングで自分の人生の事を文章として書くかどうか心の底から悩んだ。それは、別にあえて人に話すような話ではないから。
でも、私はいつか自分の人生の話を一冊の本にしたいなぁなんてぼんやりと思っていた。きっと、私の記憶は今悩んでいる人とか負けそうになっている人の元気になると思うんだ。だから、いつか自分の人生や経験を本にしたい。人間関係の事とか、恋愛の事とか、旅の話とか。もうこれでもかってくらい詰め込みたい!!
そんな事を思ったのは去年の夏。その時お世話になっていたカメラマンに「セイラちゃん、本出せば?」って言われたのがきっかけで、火が付いた。不思議だよね。だって私、普段本なんて読まないし、そう思った当初文章なんて書いた事なかったんだもん。
それで急に去年からSNSを本格的にやりだした。もう、未だに毎日がいっぱいいっぱい。正直本当に必死だ。
そんな中で、私が今回自分の人生を語ろうと思ったのは自分の背中を押す為。そして、誰かの力になりたいと思ったから。
序章は、全てが書き終わってから最後に書いているのだけれども久しぶりにがっつりと自分と向き合って、ぐちゃぐちゃに泣いた。
この物語は、何の変哲もなかった私『セトセイラ』の物語。
人間関係に苦しみ、時には夢を見て、パワハラやセクハラにも悩み、何度も人生迷子になりながら私が必死に掴んできたものを書き留めた。『自分史』なんて言い方をするとなんだか自己主張が甚だしいような気もするが、私にしか描けない世界は私が紡ぐ意義があるのかもしれない。
私の人生の話、聞いてくれますか?
・第一章:物心ついた頃~幼稚園までの記憶
私の一番古い記憶は「どうして人は死ぬのか」という事だった。
別に死を連想するような病気だった訳でも、大きな事故にあった訳でも、近しい人が亡くなった訳でもない。でも、なぜかその情報は一瞬で脳内に住み着いた。幼心に、その事実が受け入れられず毎晩毎晩泣いた。
それが私の一番古い記憶。
その後、私は意思表示が苦手な子になった。恥ずかしくて、何にも喋れなくて物静かな子だった。イケイケの女の子の「セイラちゃんもそう思うでしょ!?」という言葉にひたすら頷いていたのが懐かしい。
ある日、私の母が同級生のお母さんと立ち話しで盛り上がっていた。
待たされっ子の私と同級生の女の子。私はなんとかその子と話さなきゃと思い、たまたま積もっていた雪を校庭のうさぎに投げたらものすごく笑ってくれた。その時の感動が、私は忘れられない。
「何かしないと、友達はできないのかもしれない!!」
不器用な私は、そこから人が変わったようによく喋る子になった。喋る、と言っても普通に喋る事は出来なかったので、「あいつは変わってる」「あいつは面白い変な奴」と言われる事をステータスに感じながら喋った。マシンガントーク炸裂。
だって、人は笑ってくれるもの。
余談だが、私が現在お芝居やモデル、喋り、執筆というような表現活動をする原点はここにある。『私は、普通に喋る』よりも『表現』の方が自分を出せるのだ。不器用だったからこそ、自分をしっかり吐き出さないとなんとなく残尿感のようなものを感じてしまうらしかった。
・第二章:小学校の記憶
小学校に上がると、喋るようになった私は友達はそこそこいたように思う。
よく男の子達とポケモンしたなぁ。
しかし、私の友達と遊んだ記憶は、小学校2年生くらいで途切れている。その後は小学校3年生から、中学受験の為に塾に通い始めた。姉がそうであったように、私の中で疑問にも思わなかった。小学校3年生から、放課後に友達と遊んだ事など一回もなかった。
時には、親が小学校まで迎えに来てくれてそこから遅くまで塾に通った。私は、流行りものが分からなくなり、気付けば同級生と共通の会話が少なくなった。しかし、友達と遊べない事が特別嫌だなとも思わなかった。
小学校では、なんだか色々な世界を垣間見たように思う。
学校の先生にわざと悪い成績をつけられて、母が受験に響くからと理由を聞きに行ったら「セトさんは毎朝僕に挨拶しに来るんですよね。そんな暇あったら勉強してください」なんて言われたり。
いじめの端くれにもあった。同級生から、バイ菌扱いされたり無視されたり、給食に鼻くそを入れられたり。
そんな事件がたまにありつつ、ほとんどの記憶は受験勉強で溢れている。だからと言って、あまり勉強に興味が持てたわけでもなかった。そして、受験の末とある女子校に通う事になった。
そこは挨拶が「ごきげんよう」のお嬢様学校だ。
・第三章:中学校の記憶
長い長い受験勉強の末、入った女子校。別に志望校とかそういうのじゃない。でも、両親が喜んでるから私は嬉しかった。周りには絵に描いたようなお金持ちな家の子達がいた。
これからどんな世界が待っているのだろうか、なんて思っていたら最初に待ち受けていたのは同級生による『ストーカー』だった。ストーカー、と言っても多分普通のストーカーではないかもしれない。私がその事件をそう呼んでいるだけ。
ある日、私が悩みを抱えた同級生にアドバイスをした事がきっかけだった。その日から彼女の中で、私を見る目が変わったのだ。
ある時は、毎日好きですという手紙が下駄箱に入っていた。ある時は、毎日20通くらい好きですというメールが届いた。ある時は、5分に1回くらいのペースで電話が鳴って一日60回程電話がかかってくる時期もあった。
私は、幼稚園の『雪のうさぎ』をキッカケによく喋る子にはなったけれど、どうしても人に対して「NO」が言えなかった。それでも、私が少しでも嫌そうな雰囲気が出てしまうとその女の子はすぐに不登校になり、私は学校に呼び出された。
「どうして、セトさんは友達を大切にできないんですか?」
と怒られ、私は笑顔で
「すみません」
と言った。
しばらくして、私に友達ができた。しかし、なぜか数日後急によそよそしくなった。そんな事件が何回か続いた。どうやら、例の彼女が『セイラの隣にいるべき人は私なのにどうしてあなたがいるの?』という内容の手紙を送っているらしかった。
私には、友達と呼べる人がいなくなった。
1人だけ『私は友達だよ』って言ってくれた女の子がいたけれど、その後その子から空気のように扱われた。
ある日、私は授業と授業の間の15分休みに居眠りをしていた。そして、次の授業が始まった。何やら隣の教室が騒がしい。何かあったのだろう。すると、また次の休み時間に私は学校から呼び出されてこう言われた。
「セトさん、さっきの休み時間寝てたそうね」
「はい」
「〇〇さんはね、『セトさんが私の事が嫌いだからわざと狸寝入りをされた』って。だから悲しくて授業中に泣きながら飛び出したそうよ。セトさんはどうしていつも友達を大切にできないの?」
例の彼女は、休み時間の度に私に会いに来てたから多分その時も来ていたのだろう。
私はいつもと変わらぬ笑顔で
「すみません」
と答えた。
私はその事件以来、自分の感情をどこまででも殺すようになった。
大丈夫、まだ笑える。
大丈夫、まだ喋れる。
でも、私は気付けば自分で気付かない程、感情のコントロールができなくなっていたんだと思う。自殺した人の遺書とか、理由とか、死に方とかそういうデータがひたすらまとめられている本を読むようになった。自分を重ね合わせて、生を実感したかったのかもしれない。
これくらいの時から、幼少期の「どうして人は死ぬのか」と言って毎晩泣いていた記憶が鮮明に思い出されるようになった。そして私は、不眠症になった。死にたくない、でも、生きてる事が辛い。
ある日、彼女が言った。
「私、もしかしてセイラの重荷になってるのかな?」
私は、無表情で彼女をじっと見つめ返した。
その日から、私は解放された。終わりはとてもあっさりとしていて拍子抜けだった。
・第四章:高校生の記憶
私は中高一貫校に通っていたので、高校に上がっても見える風景は何も変わらなかった。
例のストーカー事件から解放されたので気が楽になったかと思いきや、次に待ち受けていたのは同級生からのいじめだった。同級生から見た私などどこのグループにも属さない『変わり者』という異質だったのだろう。聞こえるように悪口を言われ、教室の机は離されて、無視をされ、意味もなくこちらを向いて笑われた。
私は、世の中に絶望を感じた。
勝手に人を好きとか、嫌いとか評価して。うるせぇよ。本っ当、うるせぇ。大人達の中にも、誰一人私が思い描いていたような『大人』なんて存在しなかった。
私はこの先どこにいっても、理不尽が尽きまとう世の中なのだとまた絶望した。
もう、誰とも関わりたくない。透明人間になりたい。もう、好かれるのも嫌われるのも疲れたよ。透明人間だったら、だれからも構われないのに。
そんな状況でも私は、子供に愛情たっぷり注いでくれる両親の事は大好きだった。それが、救いだったのかもしれない。でもそんな両親だからこそ、学校が辛いなんて事は口が裂けても言えなかった。
両親との時間だけは、守りたかった。
結果的に、私は居場所を失った。
気付くと、私は誰もいない教室でわんわん泣いた。もう、辛かった。ひたすら、辛かった。
すると、同級生が1人教室に入ってきた。その子は、いわゆる不登校の一匹狼。飲酒喫煙で休学を食らったり、と皆から怖がられている子だった。そして私もまた、その同級生の事が特別嫌いだった。そんな彼女が、今日は珍しく学校に来ていたらしい。
突然、彼女がノートを私の前に持ってきてビリビリに破いた。そのノートは、私をいじめている子の物だった。私の前に破れたノートが散らばって「お前の気持ちはこんなもんじゃ晴れないだろ」と言って去っていった。
一瞬、何が起きたか分からなかった。私は再びボロボロ泣いた。その涙は、先程までの『絶望』の涙ではなく紛れもなく『希望』の涙だった。
それと同時に、私は、なぜ彼女の事が特別嫌いだったのか気付いてしまった。
誰の目も気にせずに、自分が正しいと思った事を実行できる彼女の身勝手にも見えるその強さが私は羨ましかったのだ。
私はずっと、世の中を憎んでいたし人間が大嫌いだった。この世の中は、正しいかどうかなんて全く関係い。一番最初に声を上げた『何やら強そうな人』が得をする。自分の身を守る為に、平気で人を利用するし、他人の意思に左右されているくせに自分の意思で動いてるような顔をする。そしてその事実を見て見ぬ振りして、正論を振りかざすのだ。1人で戦う勇気もないくせに、いい人ぶってる奴もみんなムカつく。なんて、最高に醜い生物なんだ人間って。
大っっ嫌い。ほんと、みんな死ねばいいのに。
・・・
そう、思っていた。ずっと。ずっと。私って、なんてかわいそうな人なんだろうって思っていた。
でも、一匹狼の彼女の行動で私は気付いてしまったのだ。・・・私は『可愛いそうな自分』という正論を振りかざして戦おうともしていなかった。私は、私がこの世の中で一番憎かった『醜い人間』と何一つ変わらなかったのだ。
あーあ。最高に、かっこ悪。
一匹狼の彼女との出会いが私の人生を大きく変えた。この日から私は、「自分の正義を貫く人間になりたい」という夢ができた。
そこから、たまたま役者業をしている人と話す機会があって「これだ!!」と、びびっときた。役者の商売道具は、自分自身だからだ。自分で考えて、自分の正義を表現する。人生で初めて、本気でやりたいと思った。
私は、自分をちゃんと表現できる人間になりたかった。そして、自分をちゃんと表現しながら生きている人達に今後の人生は囲まれて生きたかったのだ。芝居なんてやった事もない、舞台も観に行った事もない。俳優さんも全然分からない。映画もドラマ興味がなかった。
でも、私は今後の人生はこの『役者』以外考えられなかった。
そんな事を言い出した当時、親と大喧嘩した。そりゃそうだ。少しでもいい会社に勤めて、少しでも私が幸せに生きれるようにってものすごい愛情注いで教育にお金をかけてくれた両親だもの。そんは両親からしたら『役者』なんて不安定な道、不安で仕方ないに決まっている。
私が反抗期だったのも手伝って、人生最大のものすごい喧嘩をした。ちなみに余談だが、この時の喧嘩があまりに大きすぎて、姉とも大喧嘩になった。そして、私は姉とは以降7年間一切口を聞かなかった程だ。
今私は28歳なので、姉と話すようになったのはここ最近の話。私の中では、姉と話す機会が訪れるとしたら親が死んだ時かもしれないと思っていた程。
私はそこから演劇ワークショップに毎週通い始め、他の勉強は一切辞めた。そして、大学は桐朋学園芸術短期大学演劇学科ストレートプレイ専攻を志望した。桐朋一本しか受けなかった。
他の可能性など、考えられなかったからだ。
・第五章:夢の演劇業界
今までの学校生活と違い、大学はとても楽しかった。
何より、演劇学科の生徒は少なからずみんなやりたい方向性は一緒だ。沢山友達ができた。朝から晩まで芝居の稽古して、普通の大学生みたいにバイトをする時間なんてなかった。
いや、私がお芝居にそれだけのめり込んでいたのだと思う。
バイトをしていない分、お金がなかったから近所のパン屋さんで30円のパン耳を買って食べたり、時には、終電を逃して路上で寝たりする事も多々あった。
世の中の同じ歳の女の子達が色気をだしている頃なのに、私はまるで興味がなかった。それどころか、学内でセックスしたなんて話を自慢気にする同期達は、芝居よりもセックスなんだろうと思っていた。
私は間違いなく芝居が中心だった。芝居について考える事が、ひたすら楽しかった。恋人はいたが、芝居の事ばかり考えていたのでよく存在を忘れてしまうほどだった。本当に、申し訳ない事をしたと思う。
そんな大学生活もあっという間に終わり、進路を迫られる時期になった。
同期達は、就職をする者もいれば、劇団を受ける者、とりあえずフリーターなどと進路を決めていた。そんな中、私はどれもしっくりこなかった。芝居はしたいけど、特に入りたい劇団もなかった。
考えた末、私は大好きな演出家がいたので、その演出家に劇団を立ち上げたいという想いを伝えに行く事にした。その結果、幾つかの条件をクリアすればOKの答えをもらった。
私の人生は希望に満ち溢れていた。
・第六章:性に翻弄される、芸能世界
大好きな演出家から出された条件は以下の通り。
- 一人暮らしをする事
- 芝居以外に収入が得られる仕事を手に入れる事
- 車の免許をマニュアルで取る事
- 貯金を作る事
- 自分のパソコンを持つ事
- word、Excelが使える事
- お金が貯まるまで、お芝居に触れない事
私は、その演出家の条件に深く共感した。卒業当初、所持金は5000円。私は、2年計画で上の条件をクリアする事を試みた。月休み3日程でバイトに入り、月30万以上稼いだ。そして、パソコンや、車の免許を習得して、貯金を作り、一人暮らしに向けて着々と準備を始め、Excelやwordを何となく触り始めた。
そんなある日その演出家に「一緒に海に行きたい」と誘われた。そして、演出家と一緒に夜の海に出かけた。その頃の私はどこまでも純粋だった。純粋に、海に行きたいだけだと思っていた。
そこから押し倒されるという事件があった。結局、未遂で終わったがこの時の出来事が私のトラウマになってしまった。
演出家は、母と同じ歳の人で結婚もしていた。当時の私は『娘のように可愛がってくれている』とずっと思っていた。その可能性を少しも考えていなかった。その日を境に、私は演出家と会うのが怖くなってしまった。そして、私は何のためにこれまで頑張ってきたのか分からなくなってしまった。
劇団立ち上げの夢は、あっけなく終わった。
その後、途方にくれていた私を役者の先輩が「俺の所来いよ」と誘ってくれたのをきっかけに1年間劇団の研究員になった。そこで待っていたものは、激しい上下関係と、同じく性で乱れている環境だった。
私はだんだん、演劇業界で生きて行くには「性にオープンにならないといけないのだろうか」と頭を抱えるようになった。私は、お芝居がしたいだけなのに、純粋に『お芝居をする』事だけに悩む事が出来なかった。先輩から『俺の女にならないか?』という連絡が来る度に、女である前に『セトセイラ』である事が失われる気がして劇団に上がらずにその団体を辞めた。
そして、色々悩んだ末に、どこかに所属、ではなく客演という形で舞台に立とうと思い、久しぶりにお客さんを呼んで舞台に出演する事にした。本番まで日がなかったのもあり、私は誰よりも早く来て1人稽古をして、誰よりも遅く帰った。
しかし、ある日共演者からこんな注意を受けた。
「この劇団でやってくなら、早く来ちゃ行けないし遅く残っても駄目だよ。あと、1人でトイレにも行かない方がいい。」
「え?」
「演出家にレイプされて、泣きを見るからね。気をつけな。」
どこに行っても、私は性に怯えた。事務所の話がきてもAVを勧められたり、「枕業をする覚悟もないなんてやる気がないね」なんて言われたりして、お前なんか「女を武器にしなきゃ無理だよ」と言われているような言葉で溢れていて吐き気がした。
気付いたら、お芝居が嫌いになっていた。
・第七章:下積みだと思い込む、奴隷時代
私の頭は残念ながら性のトラブルに対して「夢の為に仕方ない」と納得できる程単純構造ではなかった。
何度も、普通に就職をしようと試みた。でも、他にやりたい事が見つからず、給料以外で選ぶポイントがなかったから辞めた。
芸能活動は、結局「私の人間力不足だから仕方ない」と思い込み日給1000円という奴隷のような仕事でも、お金がもらえるだけマシと言い聞かせてやった。72時間拘束で、休憩10分で1.5万円の仕事も余裕だった。
いつか、何かいい仕事に繋がるかも、なんて思わないとやってられなかった。私の今出せる価値など、根性しかないのだから。
先輩から、お腹を踏まれて「お前はこの子宮で何人の男をたぶらかしてきたんだ?」なんてニヤニヤされながら言われた。
飲み会で、罰ゲームでゲームに負けた奴はセトセイラとキスなんてのもやられた事がある。
でも何をされても、結果が出せない自分に発言力などない。全て笑顔で対応した。
そして、初めて入った芸能事務所で私はストレスが限界に達した。
摂食障害にかかり、食事は4.5日に一回。一度の食事は化け物みたいな量を食べた。口に入ればなんでも良かった。パンを30個、定食3人前、ラーメンを二杯。そして調味料を何種類もそのまま食べた。空腹な訳でも、味わっている訳でもなく苦しさで常に満たしていないと自分を感じられなかった。
限度を超える量を体に入れると呼吸が苦しくなり過呼吸のようになった。そこまでいってやっと食べる事を止められる。毎回自分が自分でなくなってしまったような気がしてものすごい恐怖に襲われた。
その後、恐ろしい後悔と共に下剤を大量に飲んだ。下剤なしでは食事が取れない体になり、体がボロボロになった。ストレスで胃から出血し、円形脱毛症で複数頭に禿げができた。毎日、禿げたところを一生懸命隠した。
しかし、この時私の異変に誰も気付く事はなかった。中学の頃磨かれた、『私の嘘を付く能力』はまだ現役だった。
ーーでも、限界だ。
私はもう何もかもが嫌になった。「今受けている仕事で、芸能生活最後にしよう。」私は覚悟を決めた。
そんな時だった。私に一通のファンレターが届いたのだ。
「セトセイラさんに、いつも元気を貰ってます!!これからも応援してます!!」
人生で初めてのファンレターだった。涙が止まらなかった。
「私に元気を貰えてる人が1人でもいるなら、私はその子のヒーローでいたい」
私は、再び留まった。
そして、当時の事務所を辞めて再び攻め方を変える事にした。
・第八章:試行錯誤の上、フリーランスへ。そして・・・
フリー活動をしたり、事務所に再び入ったりと、その後ふらふらしていたがどれもしっくりこなかった。
事務所に入ったからと言って特別仕事がとれる訳でもなく、フリーで活動していても似たような仕事は自分でとってこれたのでメリットが少なかった。強いて言うなら、所属している方が自分のプロフィールに信頼性がでるくらい。
でも、このままでは今までと何も変わらない。そう思って、とりあえずやりたい事をなんでもやってみる事にした。旅したり、モデルを始めたり。カメラを買ってみたり。色んな人に会ってみたり。
その結果、芝居以外にも好きな事が増えた。私はどうやら自分が表現できるなら方法は何でもいいらしい。
そんなある日、当時お世話になっていたカメラマンに世間話のつもりで『日本離島』の話をした。私は、色々やってみる中で日本の離島の魅力にすっかりはまっていた。私は、現在26島もの島を巡っている(※2018年現在)。
すると、私の白熱したその話を聞いていたカメラマンが「セイラちゃん、本出せば?」と言った。文章なんて書いた事もないし、いやいや専門外だよなんて思っていたが私の心の中でカメラマンの言葉が引っかかり続けた。
色々な人に話を聞く内に「今は個人のメディアを持てる時代だからネットに上げるのが一番いいんじゃない?」というアドバイスに乗ってみる事にした。こうして私の当ブログ『セトセイラwith』が始まった。
それが、私と文章の出会いだった。
普段、本を読む訳でもないし文章なんてちゃんと書いた事がなかったので初めは不安だった。しかし、いざ書き始めてみるとものすごいのめり込んだ。文才があるかどうかは分からないけれども、私の頭の中の情報が綺麗に整理されて何とも言えないすっきりした気持になった。
そして、私は思った。
活動拠点をSNSに移して、SNSで自分のやりたい事を好きに発信すればいいのではないだろうか。こんなに、表現する事に固執しているのだもの。だったら、自由に表現できる方法がSNSにはあるじゃないか。
それが、2017年6月の事。そこから、私は完全フリーで活動する為にコツコツと準備をした。事務所を退所し、お芝居のレッスンを解約し、ついにはバイトを辞めた。
今までとは違って、私はSNSを使って自分に嘘のない言葉を綴った。
始めた当初、私は今まで周りにいた人達から「そんな事、考えてたんだね」と次々に縁を切られた。そして、自分からも私に対してマイナス表現を使う知り合い達との縁をばっさり切った。綺麗に断捨離された人間関係の先に残ったものはほとんどなかった。
これが今の自分だ。等身大。だって、私今まで本心を見せた事がなんだかんだ言ってなかったもの。でも、不思議と孤独ではなかった。
だってさ、何やってんだろうねって感じでしょう。『自分の正義をちゃんと表現できる人になりたい、それに人生賭けたい』ってあの時のお前どこ行ったんだよ。
あの時と同じだ。
『結果を出せてない人間』だから今は嫌な事もやらなきゃいけない。我慢して当然だ。そう言い訳して、自分を痛め続けていた。
本当に、不器用すぎてカッコ悪。
・・・・・・でも、私はもうそんなに弱くはないよね?
二度目の人生の迷子は、笑顔が自然と溢れた。
ようやく、2018年の1月でに事務所の退所が成立して私は現在フリーランス1月半だ。相変わらず、マネタイズってどうやったらいいのか分からないし、正直仕事もそんなに多くはない。今生きる事がすれすれだ。
でもね、私は今の自分に誇りを持っている。だって、振り返ると色々あったけど私の本質は少しも変わらない。なんなら、前よりも最高になってる。
もちろん、不安で溢れている。これから、どう生きていくか毎日必死だ。でも私は、自分自身を『コンテンツ』として『ブランド化』したい。私には夢が沢山ある。
- モデル活動で「セイラさんみたいな一重になりたい!」と言われたい
- いつか写真集を作りたい
- 映画やドラマなどのメディア媒体のお芝居で、沢山の人の感性を揺さぶりたい
- 日本の離島を紹介する仕事がしたい
- 旅番組に出て、その土地の魅力を主観的に発信したい
- 得意の喋りでラジオをやりたい
- 自分の経験を生かして、悩んでいる人の相談に乗りたい
- 得意のおむすびを生かしたい
- いつか、自分の経験や旅の話を本に出したい
きっと、まだまだやりたい事は増えるし変わる。でもね、今だからこそ言える。私は、それでいいと思うんだ。私の中の本質は『自分の正義で人に笑顔になってもらいたい』。私は高校の時からこの信念が変わった事は一度もない。
ねぇ、私ってかっこ悪いかな?
ねぇ、28歳にもなって、何言ってるんだよとか思う?
でもね、私は誰よりも自分を信じてるし宇宙で一番『セトセイラ』を生きている。根性も圧倒的なエネルギー力も誰にも負けない。私は、自分の全身全霊を使って誰かの救いになりたい。
どうしようもなかった私の前に現れた、いつかの一匹狼の彼女のように。
是非ともセトセイラを応援してくださいっっっ(土下座)
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