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学校は必ずしも、行く必要がないという話

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現在、バックパッカー中のセトセイラです。
 
 
今日は私がずっと思っている日本の教育について、こうあるべきではないかというお話。
 
 

・なぜ人を殺してはいけないのか

 

 
突然ですが、「なぜ人を殺してはいけないのか」と聞かれたらなんと答えますか?
 
 
 
 
この質問をちゃんと説明できる人は実は存在しない。それっぽい答えをする人は沢山いる。殺された人の家族が悲しむから?誰もが殺されたくないと思うから?そんなのはなんの理由にもなっていない。じゃぁ、死刑ってなんなの?戦争時代を生きていた人はみんな悪なの?
 
 
 
世の中には『普通みんなやっているから』という言葉だけで片付けられている事が五万とある。でも、『みんなやっているから』『普通そうだから』という理由ではない、本当の自分の答えというものをどれくらいの人が考えてちゃんと持っているのだろうか。私は常々そんな事を思いながら生きている。
 
 
でも、別にそんな事考えなくてもよくない?
 
 
なんて言われてしまえばそれまでなのだが、私はそこに日本の教育システムの穴があると思っている。
 
 

・いじめやブラック企業はこうして生まれる

 
 
 
 
『『いじめ』はどこでもおこる』に記載している通り、私は学校という機関に対して甚だしい疑問を持っている。
 
 
髪の毛を染めてはいけない、スカートは膝丈というような校則で人間を平均化。赤点をとるやつはダメなやつだという価値観を植え付ける。
 
 
別に将来何の必要もない歴史の年号や、数学の公式、、、ねぇ、これ本当にいる!?なんて疑問を持つ時期は誰にでもあるだろう。私は、学校教育に疑問を持っているが、実はこういったものに対しては何の疑問も持っていない。
 
 
まず、前提の話として、人はそもそも殆どの人が『与えられ』る事によって自分が何者かを見出す。学校といく機関は『勉強、を与える事によって自分が学生である事を理解し』『規則で縛る事によって協調性を持ち、自分の立場を理解し』『与えられた課題をこなす事によって、達成感による自分の存在意義を感じ』『同年代と同じ環境に置かれる事で、共通の話題を見つけてコミュニケーション力を身に付けていく』。
 
 
自分が学生である事をこのような体験を通して理解するのだ。本質は別のところにあるが、分からないならとりあえずこれに従ってみろという手っ取り早さを求めたシステム。
 
 
しかし、これはあくまでも世間が提示した、言わばモデルコース。これらの本質は、物事に対する応用力の付け方や、思考力の転換、コミュニケーションによる人間的成長にあるので、けして学校が提示したものが『絶対条件ではない』。
 
 
他にも幾らでもやり方があるうちの、たかだか1つのモデルコースだ。早い段階からやりたい事を見つけられている人には、逆に広く浅い勉強をするよりも自分のやりたい学びをした方が絶対にいいし、うまく人と合わせられないのに無理に学校に固執する事ほど無意味なことはない。コミュニケーションも人間は地球上に沢山いるので学校じゃなくてもどこででもできる。学校教育の本質的な部分など、別に学校じゃなくても幾らでも学べるのだ。
 
 
それが、普通という枠しかない感覚の人達にとってはこのサンプルコースを外れたものを『自分と違う気持ち悪いもの』と認識しだす。人と違う趣味を持てば気持ち悪いし、コミュニケーションがうまく取れない子も気持ち悪い。空気の読めない子は意地悪したい。協調性のない子はありえない。テストの点数が悪い子は努力できない人間としてダメな子だ。そんな計算式が成り立つのは、そもそも学校の先生達がそういう教育で生きてきているからである。
 
 
指導するべき立場の人たちの『世間一般』という物差しは、知らず知らずのうちに子供の意識に『当たり前』を伝染させ、そしていじめやブラック企業が生まれる。
 
 
 
 
過剰労働=頑張っている
無料でやる労働力=優しい人
みんなやってるから当たり前=それができない君は仲間外れだね
 
 
 
 
この感覚は、幼少期に植え付けられた学校教育による洗脳だ。
 
 

・人間は生まれた時から人間レベルは決まっている

 
 
 
 
よく勘違いしている人がいるが、人間は別に環境によって変わるわけではない。当然学校でも同じだ。虐待されて育った子が大人になって虐待する人になるパターンもあれば、暴力を絶対に振るわないパターンになる人もいる。確かに、強い出来事は見える世界が変わるきっかけになる事はあるが同じ経験をしたものが同じような人間の仕上がりには絶対にはならない。
 
 
堕ちる奴は堕ちるし、バネに成長する奴は成長する。そう言った意味で、人は育った『環境は言い訳にする程度』のもので実は何の関係もない。
 
 
 

・それでも学校はなくすべきではないと思う理由

 
 
 
 
だからこそ、学校に固執する必要などどこにもないのだ。いじめの件数は年間20万を超えると言われ、不登校も10万を超えると言われている。いじめで命を断つものが後を絶たないこの世の中が本当に悔しい。そんな中、先日Twitterで小幡和輝さんという素敵な活動をする方のクラウドファンディング企画がリツイートで回ってきた。(現在はこの企画は終了している)
 
 
 
本当に素敵な活動をされている。ぜひ支援して頂きたいと思う。この方のプロフィールがもう、かなりすごい。現在23歳という若さだが高校生の頃に企業し、本を書きと様々な活動をしている。小幡さんのnote記事が面白かったのでぜひ読んでみてほしい
 

 
さて、そんな私がそれでも学校という機関はなくすべきではないと思う理由がある。それは、そのような普通の価値観でしか生きた事がない大人であったり、保守的な社会であったりするコミュニティにとっては『他の事で代用ができる』という発想はそもそも思い浮かばないからだ。
 
普通の物差ししか経験したこともなければ、考えた事もないコミュニティにとっては『世間一般が思い描く、普通こそ幸せがあり、その先に価値がある』と思うことが何よりの幸せだ。その為に学校という作業はある種の希望の光となり得る。
 
 
もしも、学校という教育システムがなくなってしまった場合与えられる事でしか生きた事がない人々にとっては、何をして何を学べばいいか分からず絶望してしまう。普通という固定概念の基準値や、やる事が具体的に見えるからこそ、そこに安心や幸せ、居場所を感じる人達は今の世の大半を占めている。
 
 
一般社会に出る事を最終目標とすれば、学校というシステムは的を射ている。与える場所と、もらう場所。実に理にかなっている。
 
 

・これからの学校教育は、こうあるべきだ

 
 
 
 
人は集団の中にいると、より承認要求が強まる。その為、己の能力に自信がないものは人を陥れたり、いじめ問題に発展し必ずしも嫌な思いをする弱者が出てきてしまうのはどうしようもない事実だ。
 
しかし、そういったものに対して『義務教育』や『普通』という言葉の凶器は本当に恐ろしいものとなってしまう。その言葉のせいで、まるで逃げ道を断たれてしまったかのような錯覚に陥るからだ。『ここから逃げたら、自分は普通じゃないんだ。ダメな人間なんだ』『親に、普通じゃないんだよ自分なんて言えない』の言葉の威力は経験したものにしかけして分からない脅迫的な言葉だ。
 
 
学校という普通枠は残しておいてもいいと思うが、その普通でない世界を切り開く機関はぜったいに必要だと思う。私は、在学時代本当にいい思い出が少ない。いじめやストーカー。様々な経験をした結果、人が大嫌いになってしまった。あんな思いをしてまで学校で地獄を味わう必要は私だからこそ言えるが、絶対にないと思う。
 
 
私は、たまたまメンタルが鋼のように強かっただけだ。
 
 
これからの学校教育は、もっともっと様々な人生を辿った人を教員者としてとりいれるべきだと思う。大人達のジャンルが偏りすぎているが故にそもそも『普通の固定概念』が強すぎるのではないだろうか。教育免許を取るための決まったカリキュラムが無駄だ。そして、子供達のカリキュラムにはもっとコミュニケーションに特化した教育をとりいれるべきだ。会いたい人に会いに行ける、もっと自発的な行動をとれるような後押しをする、つながりを学校で増やしていく、大人と話す機会も沢山増やした方が世界はもっと広がるかもしれない。
 
 
そして、もし学校が合わなかったという人達は行く必要なんかない。他に手段はいくらでもある。
 
 
もっと、教育や生き方に選択の幅が増える世の中に変われば笑顔になる子供達が増えるのではないだろうか。
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